生命の重み
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はコロナウィルスの蔓延によって顕在化された、人間の生の重みについて考えてみます。
重症のコロナ患者にとって、最後の命の綱は「エクモ」と呼ばれる人工心肺装置でした。
しかし高価なため、自ずと数は限られています。
人工呼吸器の推定保有台数は約45,000台、ECMO装置の推定保有台数は2,200台程度と言われています。
複数の重篤な患者がいる場合、どちらかに使えば、どちらかが死亡する可能性は、自ずと高まります。
しかも早急にその決断を行わなくてはなりません。
そうした場合、何を基準にするのか。
コロナワクチンの接種についても似たようなケースがありましたね。
どの時期に、どのレベルの人に注射をすればいいのか。
接種可能なワクチンの数に限りがある場合、その線引きをどこかで行わなければならなかったのです。
このテーマはさまざまな場面で形をかえ、議論の話題となりました。
アメリカの政治哲学者、マイケル・サンデル教授の『ハーバード白熱教室』という本の中に次のような記述がありました。
NHKでも放送され、著作は10年ほど前、次々と大ベストセラーになりました。
読んだ人も大勢いるはずです。
暴走トロッコ
暴走するトロッコがテーマです。
線路の切り替え装置のそばに、あなたがいるとしましょう。
右の方向から石をたくさん積んだトロッコが、猛スピードで暴走してきます。
止めることはできません。
ただし、線路の切り替えを行えば進行方向を変えることだけはできます。
線路の先には5人の作業員がいました。
5人ともトロッコにはまったく気づいていません。
そこで切り替え装置を使って助けようと思い立ちます
線路のほうに目をやり、様子を確認しました。
すると、視線の先には1人の作業員がいたのです。
スイッチを切り替えれば、この1人の作業員が死んでしまいます。
あなたはその時装置を切り替えますか。
それともそのままにしますか。
いずれにせよ、どちらかは確実に死んでしまいます
あなたは何も知らなかったという立場もとれます。
ここでもう少し問題を複雑にしましょう。
偶然その1人があなたの友人だったらどうなるでしょうか。
あるいは1人が青年だったら。
条件はいくらでもかえられます。
「生の重み」というパラメーターの判断基準をかえて、考えてみようという提起です。
単純に数なのか、その成員の資質なのか。
この問いは、非常に複雑な要素をさまざまに含んでいます。
トリアージの基本概念は、必ずしも災害時に限らず、日常のなかにも存在します。
一般の外来患者が待っているところに、突然緊急の手術が必要な救急患者が飛び込んできた時の対応などです。
皮膚科の例でいえば、大火傷をして車で駆けつけてきた患者を、後に回せるのかということです。
緊急度と重症度
トリアージという言葉は、今日かなり多くの場面で使われるようになりました。
元々は戦時における野戦病院で用いられていたということです。
ぼく自身、沖縄での戦争の時、負傷兵の手当てをどの順番で行うのかという話を聞いたことがあります。
回復の見込みのない兵隊に、残り少ない薬を与えることは可能なのかという論点です。
多くの傷病者がいる状況において、緊急度や重症度に応じた優先度を決めるということはそれほど簡単ではありません。
救急搬送の順位や搬送先施設の決定などにおいても、現在は用いられています。
トリアージはその他に、病院の救命救急部門の受付方法でも、行われているのです。
状況によってトリアージの内容は、変化していく可能性があります。
薬や、治療器具などの医療資源や搬送条件も刻々とかわります。
そのためつねにその時点での最適な決断を、しなければならないのです。
いかに難しい作業かということが、よく理解できるはずです。
ある程度確立した基本のルールは、もちろんあります。
判断決定責任者の役割が、非常に重いことは言うまでもありません。
トリアージの結果に対して、他の医療従事者は私見を挟んではいけません。
時には家族の了解をとれないケースもあるでしょう。
その場合はどのようにするのか。
緊急度の高いケースで施設に余裕がないときは、どのようにするのか。
明らかに死亡が確認された時は、別な場所に安置しなければならないといった基本的な項目もあります。
医療施設では、細かなマニュアルをつくり、緊急の場合に備えています。
その結果が色分けされた「生」そのものになるのです。
単純に発熱、咳、倦怠感、嘔吐、下痢、喉痛といっても、その背景は様々です。
それを素早く切り分けていくには、検査システムの充実化も必要です。
血圧、脈拍、呼吸状態等を判断することの大切さも考えておかなければなりません。
関連の文章を読んでみましょう。
哲学者、船木亨氏の評論です。
本文
最近では、大災害、大事故が起こると「トリアージ」といって、けが人に緑、黄、赤、黒のタグが付けられ、医師たちがそれを参照しながら治癒にあたるようになっている。
その由来は 臨床医学の元祖、18世紀末の夜戦病院である。
黒をつけられた人は、より多くの人の命を救うために、まだ生きているのに処置をされず、死んでいくに任せられる。
それが、まさに、「剥き出しにされた生」であろう。
死につつある恋人から「私は(ぼくはどうなるの)」と聞かれたら、底なしの闇に無限に墜落していくような心地がするに違いない。
こうした本人も家族も同意しがたい正義が、大惨事の現場では成立する。
現場においてだけ考えるなら、やむを得ないということもあるだろう。
しかし、社会全体においては、一人ひとりの生命の価値よりも、人口という社会全体の「生命の数」が重視されることで予防医学が発展してきた。
いうなれば、「社会的トリアージ」が、もっと広く政治や経済の場面でも、正義の基準になっているといえるかもしれない。
障害者や高齢者や非正規社員といった、放置されてもやむを得ないとされる人たちの群れ。
これをいわゆる、人種の問題と混同してはならない。
「このひと」の問題ではなく、生命の数の問題なのだからである。(中略)
こうした明確な問題状況においては、人は答えを出さなければならないであろうし、出せるかもしれない。
ギリシャ悲劇でしばしば 描かれたように、理性的に判断しようとすればするほど、悲劇的にならざるを得ないではあろうが。
とはいえ、こうした場合、他の人より死に近い人(死んでも仕方ないとされる人)が
存在しうるにしても、何を持って、死に向かいつつあるとするかは意見が分かれるであろう。
また、どんな場合についてもトリアージ的な基準が存在するかどうかも疑問であろう。
しかしながら、それに先立つ本当の問題は「どうすることが正しいか」ではなく、現実が常にそれほど明確な状況ではないということである。
真に倫理学的な問題は、そのような選択すべき瞬間をいかにして掴むかということである。
というのも、現実は、絶えざる選択の連続なのではない。
完全に二者択一の瞬間は、滅多に訪れるものではなく、それはいつも早すぎたり遅すぎたりするのである。(中略)
結局、机上の判断に影響を与えるのは、統計の取りやすさなのである。
統計が取りやすいか否かが、諸個人の選択や、さらには正義に関わってくるとは、何とも不条理なことであろう。
とすれば、今日の、それぞれの自由や生命が損なわれて差し支えないとされる状況において、
多くのひとがそれに抵抗しようとしないのはよほど巧妙な統治技法だということなのであろうか。
それとも ホッブス以来の統治の原理に前提されていた、近代的人間観が誤っていたということなのであろうか。
すなわち人間は本来自己保存をしようとする、自由な存在ではなかったということなのか。
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大変に難しい問いですね。
ぜひ、この機会に自分で考えてみてください。
「トリアージ社会」の現実を小論文にしてみることをお勧めします。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。