【若宮誕生・紫式部日記】人に知られざる憂愁が作家魂に火をつけた

紫式部という女房

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は紫式部の日記についてまとめてみました。

彼女が『源氏物語』を執筆したことは、誰もがよく知っています。

稀代のプレイボーイ、光源氏。

多くの人の興味はそこに集中しています。

有名なマンガにもなっていますから、読んだことのある人もいるでしょう。

しかしじっくり読むと、全く違った感慨を持つことになります。

全編に人間の哀しみがこれでもかというくらい描写されているのです。

けっして光源氏だけにスポットがあたっているワケではありません。

では、作者の紫式部のこととについてはどうでしょうか。

かなり遠い存在ですね。

高校時代に古典の授業で彼女の日記を読みましたか。

ほとんど、覚えていないでしょうね。

紫式部は子供の頃から、漢詩や漢文を読むことが得意だったようです。

平安時代、漢字は男の世界の文字でした。

ところが一緒に勉強していた弟より紫式部のほうが、よっぽど覚えが良かったと言われています。

父親は彼女の秀才ぶりを見て何度もため息をついたようです。

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男だったら、さまざまな可能性があるのに、なぜ女に生まれたのか。

女性にとって、けっして生きやすい時代ではなかったのです。

令和の時代に入っても、よくグラスシーリングなどという言葉が使われます。

ガラスの天井です。

つい目の前に見えていながら、そこから先にはのぼれないのが現実です。

ここでは、女性が生きていくことの意味をもう少し考えてみましょう。

若宮誕生

寛弘5年(1008)の9月11日、中宮彰子は男宮敦成(あつひら)親王を出産しました。

のちの後一条天皇です。

初めての皇子の誕生を、祖父道長はことのほかに喜びました。

10月16日には、父である一条天皇も土御門邸に行幸することになりました。

天皇には、もう1人の中宮定子もいました。

1男2女をもうけ、この年には既に亡くなっていたのです。

清少納言が仕えた女性です。

政治の世界は非情です。

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権力を手にするために、道長はあらゆる手段を駆使しました。

定子の生んだ親王が本来なら天皇になるはずです。

しかし外戚の権力が弱くなるにつれ、藤原道長が娘の彰子を前面に出して戦いました。

彼女を一条天皇に入内させたときには、40人の女房をつれていったといわれています。

彰子に仕えた女房の中でも名高いのが、紫式部や和泉式部なのです。

紫式部日記「若宮誕生」の原文を少し読みましょう。

原文

十月十余日までも、御帳出でさせ給はず。

西のそばなる御座に、夜も昼も候ふ。

殿の、夜中にも暁にも参り給ひつつ、御乳母の懐をひき探させ給ふに、うちとけて寝たるときなどは、何心もなくおぼほれておどろくも、いといとほしく見ゆ。

心もとなき御ほどを、わが心をやりて、ささげうつくしみ給ふも、ことわりにめでたし。
あるときは、わりなきわざしかけ奉り給へるを、御紐ひき解きて、御几帳の後ろにてあぶらせ給ふ。

「あはれ、この宮の御尿に濡るるは、うれしきわざかな。この濡れたる、あぶるこそ、思ふやうなる心地すれ。」と喜ばせ給ふ。

中務の宮わたりの御ことを、御心に入れて、そなたの心寄せある人とおぼして、語らはせ給ふも、まことに心の内は、思ひゐたること多かり。

行幸近くなりぬとて、殿の内をいよいよつくりみがかせ給ふ。

よにおもしろき菊の根をたづねつつ、掘りて参る。

色々うつろひたるも、黄なるが見どころあるも、さまざまに植ゑ立てたるも、朝霧の絶え間に見わたしたるは、げに老いもしぞきぬべき心地するに、なぞや。

まして、思ふことの少しもなのめなる身ならましかば、すきずきしくももてなし、若やぎて、常なき世をも過ぐしてまし。

めでたきこと、おもしろきことを見聞くにつけても、ただ思ひかけたりし心の引く方のみ強くて、もの憂く、思はずに、嘆かしきことのまさるぞ、いと苦しき。

いかで、今はなほ、もの忘れしなむ、思ひがひもなし、罪も深かなりなど、明けたてばうちながめて、水鳥どもの思ふことなげに遊び合へるを見る。

水鳥を水の上とやよそに見む 我も浮きたる世を過ぐしつつ

かれも、さこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど、身はいと苦しかんなりと、思ひよそへらる。

現代語訳

十月十日余りまでも、中宮様は御帳台からお出になられません。

私は西側のかたわらにある御在所に夜も昼もお仕えしています。

殿(道長)は、夜中にも明け方にも参上なさっては、御乳母の懐をお探りなさり、若宮をかわいがられます。

乳母が心をゆるめて眠っているときなどは、正気もなく寝ぼけて目覚めるのも、とても気の毒に思われます。

若宮の頼りないご様子を、殿がいい気分になって、高くささげ上げてかわいがりなさるのも、当然ながらめでたいことです。

あるときには、とんでもない粗相をされてしまわれたのを、入れ紐を解かれて、御几帳の後ろでおあぶりなさる。

「ああ、この若宮のおしっこに濡れるのは、うれしい出来事だなあ。この濡れてしまった衣を、あぶるのこそは、望みどおりのような心地がするものだよ。」と、お喜びになるのです。

中務の宮に関することに、殿はご熱心で、そちらのほうに心を傾けている者とお思いになって、私にお話しになるのも、本当に私の心の内では思案にくれることが多いです。

帝の行幸が近くなったというので、お屋敷の中をますます立派にお作りなさいます。

実に美しい菊の根を探しては、人々が菊を根か掘って持って参上します。

色とりどりに移り変わっていくのも、黄色で見どころのあるのも、さまざまに植え並べてあるのも、朝霧の切れ間に見わたしていると、本当に老いも退いていくような気分になるのに。このもの思いはなんでしょうか。

もの思いすることが、少しでも世間並みな身であるなら、風流らしく振る舞い、若々しい気分になって、無常のこの世をも過ごすことができるでしょうに。

すばらしいこと、趣深いことを見たり聞いたりするにつけても、ただ思いつめた憂愁が引きつける方面のみが強くなります。

憂うつで、思いにまかせず、嘆かわしいことの多いことが、とても心苦しいのです。

どうにかして今は、やはり、物忘れしてしまおう、考えることもないはずだから。

思い悩むのは罪深いことだと自分に言い聞かせます。

夜が明けてくれば、外を眺めて、水鳥たちが物思いすることもなさそうに遊びあっているのを見るのです。

水鳥を、水の上にいる自分自身とは関係のないものと見られるでしょうか。

いやそうは見られません。

私も水鳥と同じように、浮かびながらこの世を過ごしているのです。

あの水鳥も、気ままに遊んでいるように見えるものの、その身はとても苦しいに違いないのです。

憂愁を引きずる日々

紫式部の感性は、鋭いですね。

母親は、彼女を生んですぐに亡くなりました。

紫式部は父親である、藤原為時と強い絆で結ばれていたのです。

漢学者でもある為時の文才が、知らぬ間に彼女に伝えられたにちがいありません。

紫式部は、父親の為時が越前守として赴任する際も同行しています。

しかし998年に紫式部は1人で京へ戻ります。

藤原宣孝と結婚するためでした。

宣孝は、紫式部が越前にいるあいだも、たびたび手紙を送ってくれました。

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夫婦に子供が生まれましたが、夫・宣孝は結婚してから3年後に病気で亡くなってしまいます。

夫の死後、紫式部は『源氏物語』を書き始めました。

憂愁を言葉に書き付けたかったのでしょうか。

宣孝の死が、紫式部に人生の意味を考えさせるきっかけになったのでは、と思われます。

いくら道長の栄華を目の前で見ていたとしても、それが永遠に続くものではないことに彼女は気づいていました。

道長の目にとまった『源氏物語』が縁になって、出仕はしたものの、やはり憂愁は尾をひいていたのです。

まさか、自分の日記が1000年後の人に読まれるとは想像もしなかったでしょうね。

慶事に際しても、心が晴れることはなかった彼女の心の中を、垣間見た気がします。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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