自分の経験
みなさん、こんにちは
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は自分の経験ということの内実について考えます。
よく言われますね。
小論文の決め手は自分の経験が大切なのだ、と。
確かにその通りです。
課題文を読んだ後、どこから書き出したらいいのか考えますよね。
その時、ヒントになるのが自分の経験です。
こんなことをした。
こんなところへ行った。
こんな驚きがあった。
こんな本を読んだ。
どれもが全て経験の一部です。
人間はどんなことをしてきたかで、その人の生き方がきまると言っても過言ではありません。
環境に左右される側面を多く持っています。
どのような家に生まれたかで、将来の構図もかなり違ってきます。
家族内での経験が、価値観を作り出すのです。
それを否定することはできません。
あらゆる課題文の根底に、経験は重い役割を加えています。
自分が経験したことを元に価値判断をすることは、当然のことでしょう。
それを否定することは誰にもできません。
思想の根を形作った貴重な見聞を元に書くことの意味はそこにあります。
猛信してはダメ
しかし大きな問題があります。
その経験がどの程度、普遍化できるのかということです。
つまりあまりに特殊な経験であったとしたら、それが多くの人を説得するだけの材料を持ち得るのかということです。
かつてぼくが勤めていた学校に、幼い頃からいくつもの国で生活をしてきた生徒がいました。
彼は言語活動の基礎をつくる1番大切な時期も、あちこちの国で暮らし、現地の学校に入ったのです。
当然、宗教も違います。
アラブの国の学校にも在籍していました。
人種も違います。
同じイスラムの国といっても、正式には宗派が違います。
もちろん、カトリックの国でも暮らしました。
その経験は大変貴重なものです。
しかし大切な時期を幾つもの地域で暮らしたため、アイデンティティの喪失に苦しんでいました。
当然、家では日本語も使っていたのです。
しかし漢字が十分に読めません。
自分がどういう人間であるのかということは、生きていく上で最も大切なことです。
その部分が欠落すると、世界がとても曖昧なものになります。
つねにそれが価値の基準になるからです。
世界の多様性を幼い頃から体験したことは、非常に貴重なことです。
だれにも可能なことではありません。
しかしその故に、大切な価値のスケールを見失いがちになっていました。
この例が、経験として、どこまで小論文にいきるか。
これは厄介な問題です。
普遍化の概念
自分の経験が小論文にどう生きるのかということを常に考えてください。
非常に特殊なケースも当然あるでしょう。
生まれた環境によって人は成長するからです。
しかし多くの受験生にとって、それほどに複雑な経験があるとは思えません。
中学、高校時代のクラブ活動や、学級活動、あるいは地域のクラブチーム。
親子や兄弟との葛藤。
さらには自分の身体活動が十分にできなかったこと。
病気、けが、事故。
ありとあらゆることが考えられます。
その結果として、今の自分の価値観ができあがったのだという論点はわるくありません。
だからこの課題文に対する切り口はこうだ。
問題提起はこれで、結論はこうなる。
そういう書き方も当然あってかまいません。
しかしあくまでも入試小論文であることを忘れてはいけません。
なるべく多くの人に受け入れられる視点からの発想であることが大切なのです。
それなしに、自分はこうだったから、こうなるべきであるという書き方をしてはいけません。
ある意味でこのタイプの文章は魅力にあふれています。
ところが採点者にとってはどうでしょうか。
非常に評価がしにくい文になってしまうことにもなるのです。
大学や高校の先生方は、どういう生徒に入学してほしいのか。
よく考えてみてください。
広い視野で大きくものごとをみることができる人が1番必要なのです。
伸びしろを大切に
小論文を読んで最初に考えることは、この受験生は先に伸びるかということです。
自分の力で、世界を切り拓き、新しい領域へ飛び出していくだけの余力をもっているかどうか。
それが知りたいのです。
狭い視野に凝り固まって、自分の経験が全てだと言い切ってしまうような受験生には入学してほしくありません。
世界への認識を自ら書き換えていけるだけの、能力を持った人を高く評価するのです。
確かに自分の経験は貴重です。
しかしそこに固執してはなりません。
過去にあった特殊な体験をどう広く伸ばして、1つの認識にしていくのか。
世界の多様性を自分の目で見るなどという貴重な体験は誰にもできるものではありません。
もしそれが可能であったのなら、その後に意味づけをしてください。
自分の体験にはどういう意義があったのか。
それは今後、どういう方向に意味づけられるのか。
それを利用して生きていくことの価値はなにか。
そこまできちんと理解し、認識していれば、経験こそが鬼に金棒です。
参考書などを読むと、自分の経験を書けというアドバイスが載っています。
それをすぐに信じてはいけません。
その本当の意味はここに示したようなものです。
それができないのなら、無暗に経験を振り回さないことです。
かえって逆効果になるのが必至です。
自分の認識はどこから出来上がったものなのか。
再検証してください。
それができあがれば、あらゆるできごと、経験が大きな意味を持ちます。
旅行先で起こったこともクラス内やクラブ内で起こったことも、全てが輝く宝になるのです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。