「協操作的行為としてのコミュニケーション」失語症の事例を参考に考える

ノート

コミュニケーションの意味

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

ユニークな入試問題をみつけました。

小論文の設問です。

課題文は筆者が文化人類学を学ぶ学生として、インドネシアとアメリカでの滞在経験を基にした文章です。

より良いコミュニケーションとは何かという根本的なテーマです。

外国語コンプレックスは誰もが持っています。

数か国語を流暢に操っている人をみると、実に羨ましいですね。

しかし筆者は、外国語があまり話せなくてもコミュニケーションは可能であるという視点を提示しています。

言語能力と言語使用の関係性に注目しているのです。

「コ・オペラティブ・アクション(協操作的行為)」という考え方を耳にしたことがあるでしょうか。

これは失語症の人の様子から、コミュニケーションが話し手の言語能力だけでなく、話し手と聞き手の両者が言語記号を「操作」することで、協力的な伝達ができるということを示します。

会話というよりも、むしろ協力的な伝達行為といった方がいいのかもしれません。

この考えをつきつめていくと、外国語の習得に悩む多くの人に勇気をもたらす可能性があります。

必ずしも「正しい言語」だけが人と世界と関わる手段ではないことを強調しているのです。

課題文

文化人類学を学ぶ学生として、インドネシアに約1年、アメリカに約2年滞在しました。

こう話すとしばしば、「インドネシア語も英語も話せるんですか」と訊かれます。

このとき、私はこう答えます。

「あんまり話せません。でもコミュニケーションはできます」と。

外国暮らしにおいて、言語は大問題です。

相手のことばが分からない、自分のことばが伝わらない、というのは非常に苦しいものです。

どんなに勉強しても、知らないことばや間違いは次から次へと出てきます。

自分の存在が、非常に幼く無力になった気分の連続です。

そのような中で出会ったのが、アメリカの言語人類学者チャールズ・グッドウィンの、「コ・オペラティブ・アクション(協操作的行為)」という考え方でした。

彼の著作には、チルという人物が出てきます。

チルは脳の一部を損傷し、「Yes」「No」「And」の3語しか話せなくなってしまいました。

しかし周囲の人びとがチルに話しかけ、チルは彼らの発言に対して様々な音調で応えることで、彼はたった3語でも独立した話し手として会話に参加している、とグッドウィンは論じています。

コミュニケーションは、話し手の言語能力だけでなく、話し手と聞き手の両者が、ことばという記号を共に「操作」し、意味を定めていくことなのです。

この考えは、外国で言語に悩む私を勇気づけました。

もちろん、その言語を知れば知るほど染み出す深みもあるでしょう。

しかし、人や世界と関わることは、必ずしも「正しい言語」を通してだけではありません。

相手の発することばの手ざわりを一つ一つ受け止めながら、それを共に操作=協力すること。

それがコミュニケーションの重要な一面なのではないでしょうか。

日本ではよく、英語をはじめとする外国語を話せない、という人がいます。

もしあなたもそうだったら、代わりにこういうのはどうでしょうか。

「あまり話せません。でも、コミュニケーションはできます」と。

(参照 西浦まどか「外国語とコミュニケーション」)

問題

この課題文には次のような問いがあります。

あなたにとってよりよいコミュニケーションはどのようなものか、筆者の考えを踏まえながら800文字以内べなさい、というものです。

コミュニケーションの問題はよく出題されますね。

人間にとって、今、最も大切なものは「コミュニケーション能力」なのかもしれません。

どんな状況の時でも、この能力があれば、生き抜いていくことが可能です。

しかし言葉が流暢に話せなければ、それができないと考えている人も多いのではないでしょうか。

ここではコミュニケーションが単なる「正しい言語」能力に依存するのではないという筆者の論点を扱っています。

話し手と聞き手が協働して意味を構築していく「協操作的行為(コ・オペラティブ・アクション)」が大切だというのです。

その説の背景には筆者のインドネシアやアメリカでの滞在経験があります。

外国での暮らしにおいて、相手の言葉が分からない、自分の言葉が伝わらないという状況は、自分の存在を非常に幼く、無力になった気分にさせるほど苦しいと述べています。

どんなに熱心に勉強しても、知らない言葉や間違いは次々と出てきてしまうものです。

このような言語的な制約の中で、筆者が出会ったのが、アメリカの言語人類学者の提唱する「協操作的行為」という考え方でした。

限定された語彙しか持たない失語症の人でも、周囲の人々が話しかけ、彼が様々な音調で応答することで、独立した話し手として会話に参加できたのです。

それでは、ここからあなたの視点をどのように導入すればいいのか。

一緒に少し考察してみましょう。

言語の持つ意味

ポイントは、筆者の視点をそのまま飲み込んで、全てを肯定する立場で書くのか。

所詮それは無理であり、本当の意味で精神を通わせる伝達になってはいないのではないかという論点もあります。

かなり悩ましいところですね。

しかしこの事例は、①コミュニケーションが、話し手の言語能力のみに依存するものではない。

②話し手と聞き手の両者が、ことばという記号を共に「操作」し、意味を定めていく行為である、ということを示唆することで、1つの方向に導けます。

良いコミュニケーションとは、すなわち何かという視点からみれば、おのずとそうした構成が可能です。

言語の正確さよりも、双方向の協力関係を重視する姿勢があれば、伝達の意味合いもかなり変化します。

相手の発することばの「手ざわりを一つ一つ受け止めながら」、それを共に操作と、協力することも伝達の道筋だというわけです。

そうした発見が課題文を読んだことによって、自分の中に生まれたという論点があってもいいかもしれません。

このテーマには言語知識の深さがもたらす深みも当然あります。

人や世界と関わることは必ずしも「正しい言語」を通してだけ実現するわけではないのです。

コミュニケーションとは、たとえ不完全な言語であっても、協力し合い、意味を成立させるという相互作用そのものです。

この論点は、外国語の運用に悩む人々に対し、積極的に世界と関わる勇気を与えるものとも言えます。

もう少し深掘りしてみてくれませんか。

必ず意味のある文章になるものと信じます。

今回も最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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