「趣きのある情景とは何か」兼好法師の説を批判した本居宣長の考え方は

花は盛りに

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は本居宣長(もとおりのりなが)の文章を取り扱います。

『徒然草』の内容に関する批評です。

『徒然草』は鎌倉南北朝時代を生きた、兼好法師の随筆として大変有名です。

『枕草子』『方丈記』と並んで多くの人に今も読み継がれていますね。

自然、宗教、学問、人生などあらゆることに対して、彼自身の考えを余すところなく記している文章です。

高校でも、かならずいくつかの段落を学びます。

愉快なものもたくさんありますが、しみじみとした章段も多いです。

その中でも、自然について書いた次の内容は胸にしみますね。

ここに取り上げた137段の冒頭部分を覚えていないでしょうか。

花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。
雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。
咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。

現代語訳は次の通りです。

花は満開のときだけを、月は雲りがないのだけを見るものでしょうか。

いやそうではありません。

降っている雨に向かって見えない月のことを慕い、すだれを垂らして室内にこもり春が移り行くのを知らずにいるのも、やはりしみじみとして情趣が深いものです。

今にも咲きそうな梢、花が散ってしおれている庭などにこそ、見るべき価値がたくさんあります。

この章段は兼好の美意識を述べているところです。

花は満開だけが素晴らしいのか、月は翳りのない状態だけをよしとするのかと強く問いかけています。

もちろん、彼の答えは否です。

今まで誰もが当たり前と思い込んでいた美意識に、真正面から異を唱えているのです。

満開の桜の花を見たいと思う人が多いのは、あたりまえのことです。

しかし彼は、それだけが全てではないというのです。

このあたりに兼好法師の持っている美学が宿っています。

なるほど、彼の言う通りだと納得したあとで、この文章を読んでみてください。

江戸時代の国学者、本居宣長の批評です。

『古事記』の解読に成功し、『古事記伝』という書物を著しました。

彼は古道精神の復活を強調したのです。

ここでは心の自然な動きをよしとする兼好の説を「偽風流」として非難しています。

本文を読んでみましょう。

本文

兼好法師が徒然草に、「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」とか言へるは、いかにぞや。

いにしへの歌どもに、花は盛りなる、月はくまなきを見たるよりも、花のもとには風をかこち、月の夜は雲をいとひ、あるは待ち惜しむ心づくしをよめるぞ多くて、

心深きもことにさる歌に多かるは、みな花は盛りをのどかに見まほしく、月はくまなからんことを思ふ心のせちなるからこそ、さもえあらぬを嘆きたるなれ。

いづこの歌にかは、花に風を待ち、月に雲を願ひたるはあらん。

さるを、かの法師が言へるごとくなるは、人の心に逆さかひたる、のちの世のさかしら心の、つくりみやびにして、まことのみやび心にはあらず。

かの法師が言へることども、このたぐひ多し。

みな同じことなり。

By: Takashi .M

すべて、なべての人の願ふ心にたがへるを、みやびとするは、つくりごとぞ多かりける。

恋に、あへるを喜ぶ歌は心深からで、あはぬを嘆く歌のみ多くして、心深きも、あひ見んことを願ふからなり。

人の心は、うれしきことは、さしも深くはおぼえぬものにて、ただ心にかなはぬことぞ、深く身にしみてはおぼゆるわざなれば、すべて、うれしきをよめる歌には、心深きは少なくて、心にかなはぬすぢを憂へたるに、あはれなるは多きぞかし。

さりとて、わびしく悲しきをみやびたりとて願はんは、人のまことの情こころならめや。

現代語訳

兼好法師の徒然草に、「春の桜の花は真っ盛りなのを、秋の月はかげりなく輝いているものだけを見るものだろうか。いや、そうではない。」とか言っているのは、どうなのでしょうか。

昔の和歌などに、花は盛りであるのを、月はかげりなく輝いているのを見た歌よりも、

花のもとでは花を散らす風を恨み嘆き、月の夜は雲を嫌い、あるいは花が咲き、月が見えるのを待ち花が散り、月が隠れるのを惜しむ物思いを詠んだ歌が多くて、

趣深いのも特にそのような歌に多いのは、みな花は盛りであるのをのどかな心で見たく、月はかげりがなく輝いていることを思う心が大切だからこそ、そのようにありえないことを嘆いているのです。

どの歌に、花を散らす風が吹くのを待ち、月を隠す雲を願っている歌があるでしょうか。

それなのに、兼好法師が言っているようなことは、人の心に反した、後世の利口ぶった心の、作り構えた偽物の風流で、本当の風雅な心ではありません。

あの法師が言っていることなどは、この類のことが多いのです。

すべて、一般の人が願う心に反していることを、風流として考えるのは、偽って利口ぶった作り事が多いのです。

恋の歌に、恋が成就することを喜ぶ歌は趣が深くなくて、恋が成就しないのを嘆く歌ばかり多くて、趣深いのも、恋が成就することを願うからです。

人の心というのは、嬉しいことは、それほど深くは感動しないものであって、ただ願いのかなわないことが、深く身にしみて感じられるものであるので、

総じて、嬉しいことを読んだ歌には、情趣の深い歌は少なくて、願いのかなわないことを悲しみ憂えた歌に、しみじみとした趣のある歌が多いのものなのです。

だからといって、つらく悲しいのを風流であるとして願うのは、人の本当の心なのでしようか。

いや、そんなことは絶対にありません。

玉勝間

この文章が載っている『玉勝間』は14巻からなる随筆です。

成立は江戸時代後期とされています。

内容を理解するのには、少し時間がかかるかもしれません。

兼好法師は花は満開の時がいいというけれど、嵐や雲を嫌う歌が趣深いのは、多くの人がそうではないのを願うからだというのです。

つまり人の気持ちに逆らっていて、本当の風流心ではないのではないだろうかという批判です。

恋も同じで人は心にかなわないことを深く思うから、それを悲しむ歌には情趣がこもりがちです。

わびしく、さびしいことを風雅だとして願うのは真実の情ではないというのです。

ここでもう一度ふたりの考えを整理しておきましょう。

兼好法師の説

「花は盛り」「月はくまなき」という完璧な状態だけがいいのではない。

昔の歌にも多くあるように、満開でない桜、照り渡っていない月を見て、想像力によって情趣を味わうのが大切なのだ。

本居宣長の説

一般論として満開の桜、くまなき月、恋の成就はそれほど深く感じないので、趣深い歌は少ない。

心にかなわないことの方が深く身にしみるから、趣深い歌が多い。

兼好法師が古歌を根拠に満開でない桜や欠けた月に趣きがあるというのは、本当の心を理解していない証拠である。

どうでしょうか。

理解できましたか。

宣長の論点は一見すると兼好法師の論と正対しているかのようですが。必ずしも正面からの反論という訳ではありません。

兼好法師は「花は盛りのときに、月は欠けていない満月だけを愛でるものであろうか。いや、そうではない」ということを言っているのです。

人は満開の花や満月を求めているわけではないとは言っていません。

この文章はわかりにくいので、数学が得意な人は、集合論などでチャート化してみるのをお勧めします。

どこまでがその考えを含んでいるのかを可視化すれば、より理解が深まるのではないでしょうか。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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