才能を育てる
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は高校で習う「雑説」という文章の話をします。
これは『唐宋八家文読本』の中に所収されています。
筆者は中国唐代中期を代表する文人の韓愈です。
人は全員顔かたちが違うように気性も違います。
まさに十人十色です。
才能のある人はたくさんいるのです。
しかしその才能を見出したり、育てたりできる人が少ないのはなぜでしょうか。
せっかくの逸材も環境や指導法が悪ければ、十分に開花しないまま終わってしまうものです。
全ての人に同じ指導法でやっていたらあわない人がいてもおかしくありません。
よく言われることですが、コーチと選手の関係は微妙なものです。
プロの選手などをみていると、ついこの前まではコーチとうまくいっていたのに、突然契約を打ち切ったなどという話をよく耳にします。
それが原因で実力が発揮できなくなり、成績が振るわなくなった選手も多いのです。
ゴルフやテニスの選手をみていると、これが同じ選手のプレイなのかと思わせることもよくあります。
全く精彩がなくなってしまうのです。
その逆に信じたコーチの力を得て、ものすごい結果を出す人もいます。
高校野球などでもそうですね。
すばらしい選手を育てあげるには長い苦難の道があるのでしょう。
各人の元々持っている力を十二分に発揮できるまでにしてくれるコーチや監督の存在は本当に大きいと感じます。
確かに有能な選手はたくさんいるのかもしれません。
しかしその実力を見抜ける人がたくさんいるワケではありません。
会社でも同じことです。
あらゆる組織には階級がつきものです。
しかし上位にいる人が常に優秀であるとは限りません。
人の実力を見抜く目がどこまであるのかということを判断するのは難しいのです。
しかし逆にいえば、そうした力を持った人がいれば、素質以上の力が発揮できるのかもしれません。
本当の意味での伯楽になるには何が必要なのでしょうか。
時代を先取りする目も当然必要でしょう。
しかし同時にじっくりとものを定点観測できるだけの忍耐力も必要だと思います。
考えてみれば、人の実力を見抜くということが1番難しいことなのかもしれないのです。
「雑説」本文
高校の漢文ではよく取り上げられます。
内容が好きだったので、かなり授業で扱いました。
読むたびに、真に実力をもった個性的な生徒を見逃してはこなかったかと反省したものです。
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世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖(いへど)も、祇(た)だ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪(そうれき)の間(かん)に駢死(へんし)して、千里を以つて称せられざるなり。
馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。
馬を食(やしな)ふ者は、其の能の千里なるを知りて食はざるなり。
是の馬や、千里の能有りと雖も、食飽かざれば、力足らず、才の美外に見(あらは)れず。
且つ常馬と等しからんと欲するも、得(う)べからず。
安(いづ)くんぞ其の能の千里なるを求めんや。
之を策(むち)うつに其の道を以つてせず。
之を食(やしな)ふに其の材を尽くさしむる能(あた)はず。
之に鳴けども其の意に通ずる能はず。
策(むち)を執りて之に臨みて曰はく、
「天下に馬無し。」と。
鳴呼、其れ真に馬無きか、其れ真に馬を知らざるか。
現代語訳
世の中には馬を見分ける名人がいてこそ初めて、1日に千里も走る馬が存在するのです。
千里の馬は常に世の中に存在しますが、伯楽はいつもいるとは限りません。
そのため名馬がいたとしても、使用人の手で粗末に扱われ、馬小屋の中で
他の馬と一緒に首を並べて死んでしまい、千里を走ると称せられることもないのです。
千里もの距離を走る馬は、1度の食事で時には粟一石を食べつくしてしまいます。
ところが馬を飼う者は、その馬の千里を走る能力を知って飼っているのではありません。
たとえ千里を走る能力があったとしても、食が十分でなければ、力を発揮できず、優れた才能が表に出ることはないのです。
せめて普通の馬と同じぐらい働こうと望んでも、その機会を得られるわけでもありません。
どうしてその能力が千里も走るものであることをその馬に求めることができるでしょうか。
そんなことはできません。
飼い主は馬を調教する際に千里の馬にふさわしい扱いをしないのです。
この馬を育てるのにその能力を十分に発揮させることもできません。
馬がこの飼い主に鳴いて訴えたとしても、飼い主はその気持ちをくむことができないからです。
飼い主は鞭を手にこの馬に向かって言うことには、「世の中に名馬はいない。」と。
あぁ、それは本当に名馬はいないということなのでしょうか。
それとも本当に馬を見抜くことができないのでしょうか。
個性的であること
個性ということをよく言いますね。
しかしある哲学者によれば、同じ時代に生きた人間はかなり思考法まで似通ってしまうものだそうです。
自分ではこれがアイデンティティだと思っていても、同世代の人を何人か比べてみると、かなり似通っているのだとか。
思考法にも回路にも同じような方向性があるのでしょうか。
それを個性だなどと勘違いしていると、とんでもないことになってしまいます。
「雑説」には伯楽という言葉がでてきます。
いい表現ですね。
続に「名伯楽」と呼ばれることが多いようです。
高校野球の名監督や大相撲の名横綱にして名親方などによく付けられます。
一種の尊称です。
他の人とどこが違うのか。
一言で言ってしまえば、その選手の個性を見抜く力ということにつきます。
たたけば伸びるのか、褒めれば伸びるのか。
放任しておけばいいのか。
それとも規制を強くして、ある程度自由意志を制限することを好む人もいるでしょう。
その自在なコントロール能力がまさに伯楽の正念場なのです。
逆にいえば、1人1人の選手の個性をきちんと見抜けない人にはとてもできない荒業です。
人の心理の襞に分け入って指導するということが必要です。
会社でも組織でも同じでしょう。
トップに立つ人間は孤独です。
最後の決断は自分でしなくてはなりません。
それもやはり伯楽と呼べる条件でしょうね。
グローバル化が進む難しい時代です。
どうやったら組織がきちんと動くのか。
それを考える時の1つの参考にしていただければ幸いです。
伯楽に出会いたいものです。
できれば自分が名伯楽になれればよかったのですが…。
それは所詮夢です。
誠に無念です。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。