西行法師と娘
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は歌人、西行(1118~1190)を取り上げます。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての人です。
俗名は佐藤義清(のりきよ)。
鳥羽院に仕える北面の武士でした。
西行は歌人として有名で、三大和歌集のひとつ『新古今和歌集』には94首が入集し、第1位の座を占めています。
出家の原因にはいくつもの説があるようです。
高貴な女性との失恋もその1つだといわれています。
激しい情熱の人であったことがうかがわれます。
子どもがいたらしいということはわかっていますが、本当のところははっきりしません。
後に尼僧になったと言われています。
通常は「西行の娘」と呼ばれているのです。
西行は実弟に娘を託して旅に出ました。
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厳しい修行中も、娘のことがつねに気がかりでした。
鴨長明の『発心集』にはそのあたりの様子が、かなり詳しく記されています。
西行の辞世の歌は有名ですね。
願はくは花の下(もと)にて春死なむその如月の望月のころ
西行は1190年2月16日、河内の弘川寺で桜を見ながら静かに息を引きとりました。
享年73歳。
彼の死はこの歌と全く同じ2月16日のことだったのです。
これも大変有名な話です。
『俊頼髄脳』でよく知られる源俊頼を尊敬し、藤原俊成とは終生の友であり、いいライバルでした。
『山家集』に歌の全てを結集させたのです。
平家滅亡の翌年、69歳の時、陸奥への旅をしました。
それが後に松尾芭蕉の『奥の細道』につながりました。
本文
西行法師、出家しける時、跡をば弟なりける男に云ひつけたりけるに、幼き女子のことにかなしうしけるを、さすがに見捨てがたく、「いかさまにせん」と思へども、うしろやすかるべき人も覚えざりければ、なほ、この弟のぬしの子にして、いとほしみすべき由、ねんごろに言ひ置きける。
かくてここかしこ修行してありく程に、はかなくて二三年になりぬ。
ことの便りありて、京の方へめぐり来たりける次に、ありしこの弟が家をすぎけるに、きと思ひ出て
「さても、ありし子は五つばかりにはなりぬらん。いかやうにか生ひなりたるらん」
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とおぼつかなく覚えて、かくとはいはねど門のほとしにて見入れける折りふし、この娘いとあやしげなる帷子姿にて、げすの子どもにまじりて、土にをりて立蔀(たてじとみ)の際にて遊ぶ。
髪はゆふゆふと肩の程に帯びて、かたちもすぐれ、たのもしき様なるを「それよ」と見るに、きと胸つぶれて。いと口惜しく見たてたるほどに、この子の我が方を見おこせて
「いざなん、聖のある、おそろしきに」とて内へ入りにけり。
この事、思はじと思へども、さすがに心にかかり日来ふる程に、もしかやうの事をや知り聞かれけん。
九条の民部卿の御娘に、冷泉殿と聞こえける人は、母にゆかりありて
「我が子にして、いとほしみせん」とねむごろに言はれければ「人柄も賤しからず、いとよき事」とて急ぎわたしてけり。
現代語訳
西行法師は出家する時、家のことなどを弟にすべて一任しました。
なかでも、幼い娘で特にかわいがっていたのを、さすがに見捨てることはできないので、どうしようかと悩みました。
安心して娘の養育を任せられる人もいないことから、弟に託したのです。
こうして、修行の旅を続けているうち、いつのまにか数年がたちました。
ある時、用事があって、京都のほうをまわって来たついでに、以前の家のところを通った時、ふと思い出して「あの子は五才ぐらいにはなったはずだ。どのように成長しただろうか」
と気がかりになり、「父だ」などとは名乗らないものの、こっそりと門の辺りを覗き見ていたちょうどその時のことです。
娘がたいそうみすぼらしい一重の着物を着たまま、賎しい子供たちにまじり、板塀のそばで遊んでいるのをみかけました。
髪はゆらゆらと肩のあたりにかかり、容貌もすぐれて、美人になるであろう将来が楽しみな様子です。
西行はまさしく我が子だと思って懐かしく見たものの、すぐに胸が苦しくなりました。
娘の姿があまりにみすぼらしかったからです。
その様子をしばらく見ているうち、この娘が、西行の方を見やってほかの子供たちにこう言いながら、家に入ってしまいました。
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「あっちに行こうよ。変なお坊さんがいる、怖いよ」
西行は考えまいとは思うものの、やはりこの言葉が気にかかって仕方がありませんでした。
そうこうしているうちに、月日があっという間に過ぎていったのです。
ある時、ふとしたことから九条民部卿の娘で、冷泉殿と申し上げた方が声をかけてくれました。
西行の妻に縁のある人だったのです。
我が子にして可愛がって育ててあげようと、親切に手をさしのべてくれました。
人柄も賤しくなく、たいそう良いことと思い、急いで娘を預けることにしたのです。
尼になった娘
西行に娘がいたことはかなり事実に近いようです。
しかし名前なども不明なままです。
『発心集』によれば、後に九条民部卿(藤原顕頼)の娘で母方の親戚であった「冷泉殿」の養女になったとされています。
その後、出家して母(西行の妻)と共に高野山の麓の天野の地に住んだといわれています。
その時の様子がさまざまな逸話として残されています。
なかでも、数年後、西行が冷泉院のもとを訪ねた場面は有名です。
娘が部屋へはいると、父は墨染めの衣を着てやつれはてた姿で座っていました。
互いに涙にくれながら再会を喜びます。
親子の縁は前世からのものに違いないと西行は娘に説きました。
尼となって出家することを促したのです。
しっかりした後見のない身で宮仕えなどをするよりも、後世を祈るほうがいいと諭しました。
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娘は涙をおさえ、幼い頃から父母と離れ、今のような身の上になったことを話します。
これも前世の因縁と考え、喜んで母と念仏三昧の生活をすることを約束したのです。
約束の日、娘は髪を洗って迎えを待ちます。
冷泉殿は、娘が昼になっても出仕してこないので、待ちきれずに使いを遣わすと、すでに出家したとのことでした。
その時の気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
その後、母と娘はともに尼として、修行を続けたということです。
母尼は自分の死期を悟り、念仏しながら、眠るように往生を遂げました。
多分に創作も入っていることとは思いますが、西行の生き方を考えるうえでは、大きな意味を持っています。
人の縁は前世からのものであるという信仰は、日本人の中に深く根ざしているのかもしれません。
これからも無常の世の中を生きていくことの意味を、考えてみたいと思います。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。