「源家長日記・良経の急死」暗殺説もあるという新古今集を代表する歌人の謎

良経の急死

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は藤原良経の急死を記した源家長の日記を扱います。

良経の死はあまりにも急だったので、暗殺説もあったといわれています。

親交のあった歌人、藤原定家はその死を悼んで歌を詠んでいます。

昨日までかげとたのみし桜花一夜の夢の春の山風

昨日まで木陰をつくってくれると頼みにしていた桜の花が、一夜の夢を見ている間に春の山風に散ってしまったことだよ、というのが歌の意味です。

定家の呆然としている様子が目に浮かびますね。

良経は建仁元年(1201年)、和歌所設置に際して寄人筆頭となり、『新古今和歌集』の撰修に関係してその仮名序まで書きました。

小倉百人一首では「後京極摂政前太政大臣」として知られています。

有名な91番の歌がそれです。

きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ

有名な歌ですね。

きりぎりすというのは現在のこおろぎのことです。

こおろぎがどこかで鳴いている、こんな霜の降る寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を自分で敷いて、独りさびしく寝るのだろうかというのが、歌の意味です。

後鳥羽上皇に仕えた源家長は仮名で日記を書いていました。

紀貫之を髣髴とさせますね。

この日記はいくつものエピソードを、それぞれの事項ごとにまとめて記しているのが特徴です。

『新古今和歌集』が選集された時の経緯、藤原俊成の九十歳の賀とその死,藤原良経の死,鴨長明の出家など歌人の消息が詳しく記されているのです。

鎌倉初期に書かれたものです。

なかでも良経の死の記事は出色です。

父親である兼実の嘆きは深いものでした。

兼実は良経の死の翌年、58歳で亡くなりました。

良経の長男、道家はまだわずかに13歳だったのです。

新古今の時代

新古今の時代は華やかそのものといえます。

後鳥羽院をはじめ、定家、家隆、俊成女、式子内親王など個性的で優れた歌人が出現したのです。

そのなかでも特異だったのが藤原良経です。

良経は兼実の次男にあたります。

天台座主で歌人だった慈円を叔父に持ち、和歌や漢詩はもちろん書にも優れていたのです。

和歌は藤原俊成について学びました。

後鳥羽院も良経には秀歌が多いと感嘆しています。

しかしこの歌人には同時に悲劇的な話も伝わっています。

建久7年(1196年)、政敵に陥れられて父とともに朝廷から追放されてしまう政変にあい、その後、死を迎えてしまったのです。

良経には将来を期待された長男がいました。

しかし22歳の時に病で急死します。

良経は九条家の期待をその身一心に背負うこととなりました。

ところが彼自身も38歳の若さで亡くなってしまうのです。

この死因が実ははっきりとしていません。

暗殺されたという噂も流れたくらいです。

しかも父よりも先に世を去ってしまいました。

藤原定家が九条家の家司として出仕していたことを考える時、良経が亡くなったことの意味の大きさがわかるはずです。

亡くなった時の様子が、『源家長日記』に記されています。

この日記は建久6年(1196)の宮中出仕から筆を起こし、11年間にわたる宮廷生活を記録したものです。

家長は『新古今和歌集』編纂の事務を担当した人です。

一部分だけを転記します。

日記本文

さてもさても、元久三年今年の弥生の七日はいかなる月日なりけん。

摂政殿、夢のやうにて病ませ給ひにしは。

六日は参らせ給ひて世の御政、ひねもすに申させ給ひ、暮るるほどにぞ出でさせ給ひにし。

さて、夜の御座に入らせ給ひてより、やがておどろかせ給はず。

過ぎぬるほど、月星の光も面立たしく、例に変はれりなど道々の人びとも奏し申し侍りき。

さることは、たちにし月の二十八日に熊野の本宮焼けさせ給ふ。

取り集めたる世の中の騒ぎなりければ、おどろきおぼしめいて、方々御祈りどもひまなく侍るに、それもこたへずや侍りけん。

かばかりに目に近く世のことわりも過ぎて、申せばうたてきまでのことこそ侍らね。

七日の朝に例より遅くおどろかせ給ひければ、近く候ふ女房たち参りて起こし参らせらるるに、さらに冷え果てさせ給ひてければ、午時ばかりこそ、初めて世にののしり立ちて馬、車の走り騒ぐなど、世の中も響くばかりに侍りしか。

現代語訳

いやはやまったく、今年元久3年3月の7日はどんな運命の月日であったのでしょうか。

摂政殿(良経)が夢のようにはかない状態で亡くなってしまったのです。

6日はご参内なさって天下の政事を一日中、帝にお話し申し上げなさり、日が暮れるころにご退出なさいました。

ところがご寝所にお入りになってから、そのままお目覚めになりません。

しばらく前のころ、月や星の光が異常に輝いて、いつもと違っていたなどと、陰陽道の役人たちも帝に奏上し申し上げていました。

そのような不吉なことは、去る2月28日に熊野の本宮が焼失するということがあって、世の中の騒ぎになったので、後鳥羽院は驚き、ご心配なさって所々の社寺にご祈祷を依頼したのです。

しかしそれも効果がなかったのでしょうか。

これほど目近に世の道理を超えて申し上げる、いやなことはありません。

摂政殿が7日の朝にいつもよりお目覚めになるのが遅かったので、近くにお仕えする女房達が参上して、お起こし申し上げなさいました。

すると、すっかり冷えきっておられたので、12時ごろ、初めて世間で騒ぎだして、馬や牛車が走り騒ぐ音などは、世の中もとどろくほどだったのです。

良経と新古今和歌集

藤原良経にはすぐれた歌がたくさんあります。

19歳の若さで『千載和歌集』に入集、25歳で「六百番歌合」を主催、建仁元年(1201)の和歌所開設に当たっては寄人筆頭となりました。

『新古今和歌集』では、仮名序を書き、79首もの歌を入集させています。

入集歌数は西行・慈円に次ぎ第3位です。

すごいですね。

その冒頭に選ばれたのが、巻第一のこの歌なのです。

み吉野は山も霞みて白雪の降りにし里に春はきにけり

吉野は山も里も霞んでいます。

今年も白雪が降っていた里に春が来たのだというのが歌の意味です。

彼は新古今和歌集の仮名序を書きました。

後鳥羽院の信頼が厚かったことがよく分かります。

その後、次々へと凶変が起こります。

それが熊野山炎上でした。

当時は不吉なことが起こると、すぐ神々に祈ったのです。

高僧などを招聘して、祈祷を続けました。

昨日までかげとたのみし桜花一夜の夢の春の山風

「熊野山炎上」とは元久3年(1206)2月28日にあった熊野本宮の火災のことです。

この火災により本宮の社殿は焼失しました。

このことが都に伝わったのが3月。

そのため、予定されていた曲水の宴などを延期し、3月12日に行うことに決めていました。

しかし良経はそれを待たずに突然に38歳という若さで亡くなってしまったのです。

新古今和歌集の作者といえば、本来は筆頭にでてきてもおかしくはない歌人です。

ぜひ、名前だけでも覚えておいてください。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうござました。

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